東京最終日。
よく晴れる。すばらしい。
この日は、書く院大学のメインである、各界実力派による講義。
できれば全て見たい勢いだったが、それは出来ないので、泣く泣く絞る。
1コマ目は、澤本嘉光氏、高崎卓馬氏、福里真一氏、井村光明氏による講義。
ワタシの好きなCMプランナーばかりである。感動した。
何か全体的に低めの妙なテンションだったが(一番後輩の井村氏が盛り上げようと奮闘してた笑)、それはそれで楽しかった。福里氏のもそもそっとした鋭いツッコミとか。
内容としては、怒られはするが誉められることは決してないというCMプランナーの微妙な立ち位置を考慮して、お互いの作品を褒めちぎりあうという「非常に気持ち悪い(福里氏談)」内容。
それに絡めて、仕事内容、仕事への取り組み方、発想の仕方等々実務的なレベルでの話を沢山してくださった。
あと、美大出身の美的センスと一般人の美的センスとの差に悩みながらも、「生理的に美しい」画を如何に撮ろうかと奮闘しておられる風であった。
最後にCM作りおいて大事なことは、それぞれ、「ひたすらシュミレーション(澤本氏)」、「達成すべき課題(宿題)を課すこと(高崎氏)」、「得意なことを見つけること(福里氏)」、「理屈付け(井村氏)」であった。
センスでどうにかできるものではない。
2コマ目は、川崎徹氏、黒田秀樹氏、中島信也氏による
こちらは、先ず黒田・中島両氏のCMを年代別に見て行き、それに対して川崎氏がコメントする。そして、黒田・中島両氏が選ぶ川崎氏のCMトップ10を流した。
黒田・中島両氏の絶妙な掛け合いのもと、講義は軽快に進められ、合間合間に川崎氏が本質を突いた鋭いコメントをしていく感じ。
この日受けた3つの講義の中で、全てにおいて一番レベルが高い講義であった。
川崎氏曰く、「表現に奥行きがない、商品だけを語っているのが、まさに広告である」と。
余計な奥行きを加えない、と言うのはシンプルであるが、それゆえにかなり難しいことであると考える。
しかし、黒田・中島両氏のCM(先ほどから「作品」と言う言葉を使わないのは、川崎氏がそう仰っていたからである)はどちらも、それに当てはまると川崎氏は評価していた。
面白いCMは、何時見ても面白いのである。
川崎氏のCMもそうであった。
今の学生から笑いを取れるような1~20年前のCMが、果たしてどれほどあるだろうか。
川崎氏は、「広告は現在進行形、どれだけ『今』と付き合うかが大切」と仰っていたが、それだけだったらその一瞬にしか通用しない。
後世に残るようなCMと、そうでないCMとの違いは何か。
私は、「笑い」が一つの要素にあると考えた。
それも、流行の笑いではなくて、人類の奥底で一つの潮流となって流れているような、本質的な笑いである。
もう一つ言うなら、大笑いするようなものではなくて、思わずクスクスっとするようなものである。
川崎氏のCMもそうであった。
クスクス笑いは、ある意味嘲笑と似ている。安心感を与えるのである。
そして、クスクス笑いは不意打ちで来る。身構えていたら、クスっとは笑えない。
それに、大笑いはその一瞬で消えるが、クスクス笑いは後で思い出して、再び笑う。
それは、戒めの意味でもある。
例えば、バナナの皮で滑った人を見て、思わずクスっと笑う。
それは、何気ない日常におけるいわば潤いである。
このとき大笑いするような人は、単なる馬鹿である。
そして、後にその光景を思い出して、またクスっと笑う。
それは、自分もああならないように気をつけようと言う戒めであるのだ。
しかも、繰り返すことによって、より強く印象に残る。
まあ、ハプニングにしても、例えば学校の中で起こったことなどはクラス中で大笑いするかもしれない。
しかし、それは「クラス」と言う装置によって増幅されたクスクス笑いであると考えれば、問題ない。
不意打ち・嘲笑・戒めと言う意味では、同じである。
そこで、広告である。
広告は、ただその商品を褒めちぎるだけでは成立し得ない。
そんな広告は、いわゆる面白くない広告である。
何かしらの批評・批判が必要である。
それを見つけるのが、「現在進行形」であり、「『今』と付き合う」ことである。
しかし、その批評・批判が人間や社会の本質を捉えるものであったとき、それは「今」だけでとどまるのではなく、時間的に普遍的なものになる。
(そういう意味では、appleの「1984」などのように笑いを伴わない批判・批評であっても、強く後世に残る。笑いが「一つの要素」といったのはここにある。笑いが全てではない)
だから、川崎氏のCMは「現在進行形」かつ「『今』と付き合う」ものでありながら、現代の学生にも受け入れられるのだ。
少し論の展開的に厳しいところもあったが、何とか結論まで持っていけた。
今日は、ここまで。
恐らく次でラストである。まだ続くのかよ笑
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