2007/07/28

東京レポートその5

やっと最後の東京レポートです。

◆ ケイゴ、世界が広がる ◆

さて、三コマ目。

パネリストは山崎隆明氏、山本高史氏、小西利行氏。

別の講義に箭内道彦氏が出ていたので、どちらにしようか非常に迷った。

しかし、山崎氏のほうはテーマが「書く力」と言うことで、私はコピーのことに興味があったので、こっちにした。

山崎氏といえば、ホットペッパーとかキンチョーとか、私が好きなCMを作る人である。

関西人だし、さぞかし面白い人なのだろうと思って期待していたのだが、ところがどっこい、非常に真面目で静かな方だった。

正直、がっかりした。

講義自体も、なんだが三人が妙にかみ合わない感じで、あまり盛り上がらないまま進んでいった。

しかし後半、言葉にまつわるテーマごとに三人が回答していくコーナーになると、とたんに面白くなった。

三人の言葉の捉え方、扱い方などが非常に興味深かった。

そして何より、言葉を大切にしているということが非常に良く伝わってきた。

オープニングディスカッションのテーマも言葉に関するものだったが(東京レポートその1参照)、そのときと同じことがここでも聞かれたのが印象深かった。

山本氏の「昔は詩から音をつくっていたが、今は音から詩をつくる」というのと、山崎氏や小西氏の「コピーはまず手で書く」という二点である。

どちらも、言葉軽視の風潮を嘆いての発言である。

私は、言葉は本体肉体的なものであると考える。

それが最近は、非肉体的になっていると考える。

どういうことかと言うと、言葉と言うのは、人から何らかの形で、声に出すとか文字にするとか、外部に発せられることで初めてその存在を認められる。

そのとき、必然的にその人の声や字の調子・抑揚が言葉にその本来持つ意味以上の意味を与えるのだ。

言葉と肉体は一体であった。

だが、時代が進むにつれ、言葉が肉体から離れていった。

端的に言うと、書く量が減った。

更には、ワープロ技術の進歩で書くこと自体の必要性も薄らいでいった。

そうなると、言葉はその本来もつ意味以上でも以下でもなくなる。

「MS ゴシック,10pt」などと言うように規定された言葉は美しくない。

なぜ、手紙がまだ愛されるのか。なぜ、手紙はワードではなく手で書くのか。

それも、ここにあるのだと思う。

肉体的な言葉には、その奥に書き手の人格が現れる。

だが、手で書かれた文字がマスで発信されることは少ない。

CMにしろポスターにしろ、大抵のコピーは活字である。

では、活字の何が人の心を動かすのだろうか。

それは、肉体的な言葉に他ならない。

コピーだって、詩だって、小説だって、活字であっても、肉体的な言葉である限り、多くの心を動かすのだ。

肉体的な言葉は、たとえ活字になっても、元の肉体を内包している。

言葉は誰でも操れるけども、それを使いこなせる人が一握りなのも、ここにあると思う。

大切にしたい。


さてさて、講義も終わって大満足のわたしは新国立美術館に行こうとした。

佐藤可士和士がデザインしたロゴをこの目で見たかったのだ。

表参道から歩いていこうとしたら迷子になって何故か渋谷にたどり着いたのは、ここだけの秘密である。

すでに閉館時刻を過ぎていたし、帰りのバスの時間もあったので、今回は断念することにした。

また、機会があるだろう。

お土産に東京ばな奈と東京ラスクとバナナを買って、帰阪した。



さて、5回(番外も含めれば6回)に渡った東京レポートも今回で最後であるが、得たことを一つ挙げるとすれば、それは、違う世界を知ることが出来たことである。

まず、社会と言う世界を垣間見た。

そして、東京と言う世界に圧倒された。

最後に、プロの世界に触れることが出来た。

どれも、私が知らなかった(知っていると思っていた)世界である。

今まで、どれだけ狭い世界で生きてきたかを思い知らされた。

全ての世界を知ることは出来ないかもしれない。

しかし、できるだけ沢山の世界を知りたいと思う。

東京に行って、良かった。

予想外に金は飛んだけど(笑)

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